Japan Soccer 50年

2013年2月22日金曜日

日本柔道界の暴力問題について


こんにちは! 蜻蛉です。 イングランドの名門マンチェスターUで活躍している香川真司選手が、日本サッカー史上初めて、世界サッカー界の最高峰とも言える大舞台(欧州CL決勝トーナメント1回戦スペインの名門Rマドリード対マンU戦―ベルナべウスタジアム)、にて、出場しましたね。素晴らしい出来事ですし、日本サッカー界にとっても大変喜ばしい出来事です。我々サッカーマンにはユメの夢ですからね。現役サッカー選手たちにも、夢でなく、可能性が現れてきたようですね。

一方では、日本代表対ラトビア戦の批評をこのブログにて、本田圭佑(OSKAモスクワ)の膝のことを記載しましたが、以前右膝の手術をしたバルセロナの医師に検診してもらうため、スペインに滞在、というニュースがありました。膝は脚腰を駆使するサッカー選手にとって重要で、しかも大変デリケートな部位です。大事に至らなければと、祈っております。

さてきょうは、サッカーの話題でなく、スポーツ界の暴力問題について話し合いたいと思います。このブログで、昨年の4/7と5/2に『歴史的な観点から覗く日本人の緊張感』に掲載しましたが、今回の問題の根源もこれらと関連しているのではないだろうか、というコトで再度取り上げました。

2月5日、下村博文文部科学相は柔道女子日本代表での指導者による暴力問題を「日本のスポーツ史上最大の危機」として、暴力の根絶を呼びかける異例のメッセージを発表しました。

競技団体ごとの通報窓口設置やトラブルの相談を受け付ける第三者機関の新設も求めた。このメッセージは「スポーツ指導から暴力を一掃するという基本原則に立ち戻り、スポーツ界を挙げて取り組む必要がある」と強調。指導者養成の在り方を改善する必要があるとした。柔道以外についても暴力行為がなかったか実態調査を進めるよう要請した。改革とは、外部有識者による第三者委員会の設置、女子支援体制の強化、女性理事登用、女性監督起用等々。

今回の暴力問題を歴史的に、明治維新後に遡って、考えてみましょう。

「将を射んとすればまず馬を射よ」「精神を統御しようとすれば、まず身体を統御せ
よ」

明治維新後、山縣有朋(やまがたありとも)の主唱によって、明治6年に国民皆兵を標榜する徴兵制が導入されました。このとき山縣の念頭にあった近代兵制のキーワードは「統制」でした。これは2つのコトを意味しています。1つは明治政府の指揮に従おうとしない各藩の士族兵を「統御する」コト、第2には、これまで武装したことのない農民や商人ら平民の身体を軍事的に「標準化する」コトです。つまり農民の身体を「標準化する」ことをもって、中央権力に服さない士族兵の身体を「統御する」という2つの水準での「身体の統制」を山縣有朋は企てていたのです。

この軍事的身体加工の「成功」(西南戦争の勝利)をふまえて近代日本は「体操」の導入に進みます。明治19年、文部大臣森有礼(ありのり)は軍隊で行われていた「兵式体操」を学校教育現場に導入します。生徒たちの身体の統制が「道徳の向上」と「近代的な国家体制の完成」に不可欠のものであることを森はただしく看取していたのです。国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康増進や体力の向上ではありません。そうではなくて、それはなによりも「操作可能な身体」、「従順な身体」を造型することでした。

身体を標的する政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配するコトこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが「統御されている」というコトを感知しないで、自ら進んで、自らの意志に基づいて、自らの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。

(スポーツはこのような傾向があるようです)

政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。いかなる政治権力も人間の「精神」にいきなり触れて、意識過程をいじくりまわすことはできません。

「将を射んとすればまず馬を射よ」「精神を統御しようとすれば、まず身体を統御せよ」です。

(内田樹著『寝ながら学べる構造主義』文春新書より)

柔道女子日本代表候補選手15名による告発は、「耐えがたき監督、コーチの暴力行為と暴言」とのコトですが、実際に暴力があったのでしょうか。暴行を受けた女性が身体にある障害があったのでしょうか。もし障害があったとしたら、障害事件にまで発展するはずです。まして、15名の告発者の名が公表されず、匿名のままで監督、コーチに、あっさりと辞任させるというのも、何か曖昧さを感じさせます。  

確かに女性たちは苦痛をうけたのでしょうが、スポーツの世界では、大なり小なり万人が経験するものですが、あらゆる社会あらゆる時代において同じ強度で、同じ仕方で、同じ痛みとして経験されるわけではありません。「現に、苦痛が耐えきれなくなる閾値(いきち)には個人差があるだけでなく、その個人がどのような文化的なバックグラウンドを有しているかによっても異なることも知られている」

身体的苦痛のような物理的・生理的経験でさえ、歴史的あるいは文化的な条件付けによってまったく別のモノとなります。何を苦痛と感じ、何を苦痛と感じないか、という「苦痛の閾値」はその人がどういう文化的なネットワークの中に位置しているかによって変化します。

それを逆から言えば、明治維新後のように、身体を文化的な統制、あるいは政治的な技術によって造型し直し、変容し、馴致(じゅんち)することだってできるわけです。

大阪の高校教師による暴力的な行為によってバスケットボール部の主将が自殺したように、似たようなケースが起こっていながら、発覚するまで何の手を打たなかった文部科学省にも問題がありそうです。 

昨夜TVで見た全日本高校女子チアガールリーダース(集団組み体操)にしても、優勝するために危険な難度の技を強いる指導者、落下して首の頚椎を痛めて見学している者、何度も高いところから落下して下の者に支えられている者、それらを離れて全体が見える位置に立って強要している指導者の姿があった。見ていて、チョッとの不注意で重症または死に至る大技を、アシスタントコーチなしでできるのであろうか、もし犠牲者が出れば、誰が責任をとるのか? 誰かを制裁するコトですむだろうか? 

名門校にはこの傾向があるようです。それらの演技を観戦する側からすれば、「素晴らしい」と賛美しますが、もし誰かが犠牲になったとたん指導者は目の敵にされるのではと、そう考えるだけでも、今回の問題に対応した文部科学相の「柔道の指導者の行為を一方的に暴力と決め付けた」姿勢に、私ははなはだ疑問を感じています。また、挨拶やマナーも指導できない全日本柔道連盟に対しても同様です。

グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ!

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