Japan Soccer 50年

2012年10月13日土曜日

サッカーの内部感覚について (2)

こんにちは! 蜻蛉です。 真夜中のサッカー試合の観戦は、ロンドン五輪開催中は、慣れっこになっていました。しかし、明朝(13日)4時(フランスのサンドニ)、サムライジャパン日本代表対フランス代表戦が行われますが、今回は観戦できるか(その時間に起きられるか)多少不安です。皆さんも観戦を楽しみにされておられるでしょうが、無理して、体調を崩さないよう気をつけましょう。

 さて、前回「内部感覚」について述べましたが、今回も引き続き同じテーマのコトについて述べてみたいと思います。

 今回は特に、大学生諸君を対象とした、サッカーの「内部感覚」について、私の考え(主観的かもしれませんが)を述べてみたいと思います。

 日本の学校教育や学校スポーツは、指導者が指導要領?に従って知識等を、生徒や学生に与えて学ばす傾向にあり、頭または体に記憶させながら訓練しているように思われます。

 ですから、子どもたちのように、激しいゲームをしながら、トラップ、ドリブル、キック・ヘッドでのパスやシュート、マーク、タックルなど、技能や技術の内部感覚を自然に身につけるコトはむずかしい(この年齢では感覚器官はほぼ形成されている)ようです。

 しかし、学生諸君は知的な考える能力がありますから、この「内部感覚」に対しても、意識の「志向性」を変えれば、一般常識とはチョッと違った「感覚」のコト・モノに観察され、他の選手ともチョッと違ったコトが感じ合えるかもしれません。

 一般的に「体操」というと、器械体操、集団体操、学校の体操(ラジオ体操)が思い浮かばれます。

この体操という言葉の文字の意味を単純に考えてみますと、2つの意味があるようです。その1つは、「体を自ら操るコト(モノ)」と、もう1つは、「体を他人から操られるコト(モノ)」というふうに同じ体操でも意味がまったく変わってしまいます。前者は器械体操であり、後者は集団体操と学校体操に該当するようです。

サッカーも集団競技ですから、指導者は、規律を厳しくして、練習を通じて、選手の身体を統制しながら支配し、同時に精神をも支配するコトで、技術や戦術を習得させる、という傾向があります。

それは強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されている選手が「統御されている」というコトを感知しないで、自ら進んで、自らの意志に基づいて、自らの内発的な欲望を駆り立てられて、従順な選手として、チームという組織の網の目のなかに組み込まれてきているのです。(ここで述べているコトは、一般論ですので、日本のサッカーのすべてがそうだ、という意味ではありません)

ここで学生諸君に、「内部感覚」について述べる前に、まず、

「カラダというモノはどのようなモノか?」というコトを、常識的な概念に捉われず、日常のなかから、カラダ本来の機能を自分自身で思い出してみてください。

 私たちのカラダには祖先の経験と、それを凌いできた知恵の数々が満ちているはずです。単なる「モノ」から「生きたモノ」へ、さらに「ヒト」へ長い道のりの過程で、カラダを環境に適応し順応してきた知恵を、あらためて発掘してみましょう。 

「カラダは意外な事実を教えてくれるかもしれません」

あなたのカラダに関しては、あなたのカラダが一番よく知っているはずです。

 今回は学生向けのサッカーの「内部感覚」について述べる予定でしたが、残念ながら前置きが長すぎて、核心にふれるコトができませんでしたので、次回にはそのコトを具体的に述べようと思います。よろしくお願いします。

 グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ

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