この『蜻蛉ちゃんのサッカー』シリーズも昨年12月22日にスタートして以来80回目になりますが、今後ともよろしくお付き合いさせて下さい。
さてきょうも前回の「英語(外国語)教育とサッカー」というテーマについて、引き続き述べてみたいと思います。
「英語教育の不備」
教育は漸次頭脳を作り上げていくという長所があります。しかし、これが逆に短所になるコトもあるのです。私たちが話す日常会話は、学校で習ってからではなく、幼児の頃から、親や兄・姉など、周囲の人との触れ合いから自然と身につけてきたはずです。
「なぜ日本人には英語の発音がむずかしいのか?」
「なぜ英語らしい英語を話したり、書いたりするコトがむずかしいのか?」
私は語学の専門家でもないし、教える立場でもありません。無責任ではありますが、私のサッカー哲学からの見解でこの問題を結論的に言うコトを許されるならば、日本のサッカーと同様に、初歩の段階において、誤った指導の仕方をしているのではないでしょうか。
子どもたちは歌が好きです。歌にも多様なリズムがあって、耳から聴き取って歌うコトができます。歌だけではなく、動作やジェスチャーと表情までマネするコトもできるはずです。
サッカー少年たちも、プロやアマチュアの試合を観戦しながら、印象的なプレーヤーのボール扱いや体の動かし方などをイメージし、近所の友達と遊びながら、自然と、サッカー選手らしくなっていくのです。その遊びの場がイメージしたプレーを表現する舞台なのです。その技能の習得は子どもが歌えるようになる過程とそれほど違いはないと言えそうです。
約30年前、ペルーに住む私に日本サッカー協会と縁結びのキッカケをつくっていただいた、当時協会事務局長でおられた、中野登美雄さんの言葉は今でも鮮明に覚えています。
「海外によく出かけるけれど、ときには、1週間で欧州と南米各国を回ってくる
コトもあるんだよ。なかには、英語が通じない国もあるが、そのときには、空港や機中で、その国の言葉のテープを聴きながら、言葉のリズムを掴むよう心がけている。
すると、相手が何を言おうとしているのが分かるんだよ」
中野さんは、外国のサッカー関係者の中で、“トミー・ナカノ”で知られていて、当時からW杯開催を夢見て、世界的には知名度が低い、日本サッカーのPRを兼ねて、重要な交渉に当たっていたのです。
日本サッカー界に有形・無形の財産を遺し協会を去られましたが、約20年後に開催を実現した裏には、トミーさんの優れた語学力、サッカー選手の経験、インターナショナルの性格と豊かな人間性、サッカー愛と情熱等々が、海外サッカー界の関係者の眼を日本に向けさせていたのです。なぜなら、トミーさんは、
「もちろんW杯を日本で開催するコト、自分が協会にいる間にできなくとも、その基盤だけでも作りたい」
と、眼鏡の奥の瞳を輝かせて語っていたからです。
「耳学問」というと多少バカにされそうですが、言葉を覚えるには最も優れた方法だと思います。赤ん坊が母親の言葉を教わり覚えていく順序を踏むようにするコトです。
外国人と話す時に、まず日本語の文章で考え、それから頭の中で英語を組み立ててから、ボツボツと話す。たとえ発音が立派であっても、二重の頭脳労働になり、とても実際には、役立ちません。それでは「ハイ品切れです!」と、15分ももたないでしょう。これは私自身が実際に体験してきたコトですから、自信?を持って断言できます。
サッカー流にやるとしたら、他人のしゃべる言葉をそのまま覚えて、それを忘れないよう、同じような場所や機会にて、おしゃべりを連発するコトです。恥ずかしいと意識する前にこれをやるのが理想でしょう。
恥の上に立ってやるコトです。恥ずかしさこそ、語学の進歩を妨げる敵なのです。ボールリフティングやドリブルなど、人前でやるのが恥ずかしいからと、コソコソと隠れてやっていると、肝腎なときに恥をかくコトになるのです。いわゆる「接触プレーに慣れる」コトです。
日本の英語教育は、文部科学省の指定する教育基本法、学校教育法および同法施行規則や教育委員会規則、ならびに中学校学習指導要領の示すところに従って教育課程を編成するコトが義務づけられており、英語も選択科目ではなく必須教科になっています。(現在は多少変更しているかもしれませんが)
このような法律や規則にしばられ、指導カリキュラムと、教科書を編成しているところに問題があるようです。その上高校や大学の入学試験にしても、企業の入社にしても、英語の筆記試験、という大きな壁が立ちはだかっているのです。
これらの壁があるというコトは、学校で、英会話を自然に習うコトは困難を要します。なぜなら、英語の授業が、日本語と英語で聴いたり、話したり、読んだり、書いたり(英文和訳・和文英訳)などで、英語だけで授業が進められないからです。それ以外にも、外国人と同じように正しい発音で指導できる英語教師にも限度がある、という事情もあります。
サッカーは、いまや世界的なスポーツになり、国際交流が頻繁に行われています。また、海外で活躍している選手たちも大勢います。中には、流暢に現地の言葉でインタビューしている選手もおります。たとえば、現在柏レイソルで活躍している沢昌克選手がペルーのプロチームでプレーしていたとき、ペルーのTVスポーツ番組にゲストとして招かれ、流暢なスペイン語で、堂々と対話していたのを見ております。
考えてみてください。私たちは学校で英語を何年学習してきたのでしょうか? 10年は経過していると思いますが、読めても、聴き取れない、話せない、書けないのが現状です。それなのに、専門家やお役人さんたちは、
「その現実を直視するのを避けているかのように思えてなりません」
以前にも同じようなTV番組がありまして、私のような意見を述べても、専門家?の人の応えは「否定的」で、何の進展もなかったのです。
サッカーの指導で注意しなければならないのは、「オーバーコーチング」です。日本の選手が伸び悩むのは、ジュニアの世代から、指導者が戦術的なコトやむずかしいテクニックを教え過ぎ、早咲きさせて、外国の同世代の選手と比較してテクニックが優れているように感じさせられているのです。このような言い方をしたら、おそらく、反発されるでしょうが、それが現実です。
日本サッカー界は欧州で多数の選手が活躍しています。彼らの体験をサッカーだけに限らず、言葉も含めた生活と交流等々を、教育にも活かせるように積み重ねていけば、自然と良い方向に展開できるのではと期待できそうです。
グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ
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