Japan Soccer 50年

2012年11月29日木曜日

英語(外国語)教育とサッカー 1/2


こんにちは! 蜻蛉です。 J1リーグは、仙台が地元で新潟に0−1で敗れ、地元でC大阪に4−1で勝った広島が1節を残し初優勝しました。

 J2リーグの3‾6位によるプレイオフも、6位の大分が5位の千葉に1−0で勝ち、大分がJ1への昇格を決めました。

敗者の仙台も千葉も大変残念でしたが、これが「意外性の芸術」とまで言われるサッカー競技の、恐ろしさであり、面白さなのだ、というコトを顕著に感じさせる試合の結果であったように思われます。

さて、前回2回に分けて、「フィジカルトレーナーの使命」について述べました。私が日本に一時帰国して以来、日本サッカーとその他のスポーツを垣間見てきて、日本人の技術は、外観的には素晴らしいように見えますが、内部感覚の視点から覗きますと、根本的な「何か」が足りないように感じています。

その足りない「何か」のひとつが「フィジカル」であり「フィットネス」にある、というコトです。基本技術にしても、その基礎はカラダというフィジカル面での「身のこなし方」にあるはずです。

ゴルフに例えれば、日本人と韓国人のゴルファーを比較してみると、根本的な技術の差を感じさせます。不安定な日本人に対して、安定感のある韓国人ゴルファーが大半のカップ戦を制覇しているのは、本当の意味での基礎体力に裏付けされた基礎技術があるからこそ結果として現れているのだ、と私はそう感じています。

先日TVにて、学校の「英語教育」をテーマにして、「小学1年生から英語の授業」とか「英語だけでの授業」等々について、専門家を交えて論議しておりました。

これらの問題は、国際交流の多くなった日本サッカー界というかスポーツ界にも直接関係するコトです。偶然にも、私が執筆している『サッカー文化と異文化の内外相合』という題名の原稿に、「英語教育とサッカー」という1項を載せていますので、その一部を抜粋して皆さんに紹介したいと思います。

「日本人の英語はよくわからなかった」

この言葉は、2002年日韓共同開催FIFA・W杯サッカーの大会を取材していた、外国人記者の批評のひとつだったのです。

彼らにとって、W杯の運営はすべてにおいて、実に快適だったようです。日本人の親切な態度やサービス(世話)、そして、時間に対する厳格さなどは、文句なしにベタホメでした。しかし、彼らにとって一番困ったのは、やはり日本人とのコミュニケーションにおける、言葉に問題があったようです。

言葉の問題については、むかしから取り上げられていたコトですし、これからも容易に解決できる問題ではないコトかと思われます。なぜならば、日本語の性格は、二重構造からくる曖昧さと、文法的にも発音においても、外国語と親戚をもたないまったく異なる言葉だからです。ですから、日本語で考え、そして、外国語で同時に話すなどは容易ではありません。

「サッカー選手になるには、中学生から始めたのでは遅すぎる」、この言葉は、来日した、外人コーチの共通した忠告でした。しかも、彼らは、学校で習うサッカーについても限界があるコトも指摘していました。

私がストリートサッカーを繰り返し強調しているのは、言葉に置き換えれば、日常会話や日常用語を、家庭や普段の生活の中で、自然に習得していく過程と一緒だ、と思うからです。ある国で生まれた子どもたちは、その国の言葉を、普通誰でもが、話せるし、別に学校で習わなくても喋れるはずです。

言葉と同じように、サッカーは学校やクラブで習わなくても、近所の仲間と、道端、公園、広場、空き地、海岸などでのゲームでサッカー選手の素養は自然と身につけられるのです。

英語でもその他の外国語であっても、聞き取れて話せるというコトが、その後、どれだけ有利に展開するか、体験した人たちはよく理解していると思います。聞く コトと話すコトは、建築や大工のための、道具であり用具であるはずです。極端で失礼な言い方になりますが、日本の英語教育は、道具や用具なしでモノを作ろうとしているのではないでしょうか? (次回につづく)

グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ

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