Japan Soccer 50年

2013年1月5日土曜日

蜻蛉ちゃんの自己紹介 (4) 日立製作所本社サッカー部時代


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 2013年の日本サッー界は、元日の全日本サッカー選手権決勝(国立)、柏レイソル対ガンバ大阪戦でスタートしました。柏がG大阪に1−0で勝ち、37年ぶりに天皇杯を獲得しました。

 37年ぶり、と言いましても現在のJリーグ(発足して20年)はまだ存在していませんでしたから、それ以前のJSL(日本サッカーリーグ)時代というコトになりますね。そうです、当時のクラブの名は日立製作所本社サッカークラブ(アマチュア)でした。

 

こんにちは! 蜻蛉です。 正月早々、日本サッカーのビッグイベントにて、柏レイソルがプロとして初めて天皇杯を獲得しました。おめでとうございます。蜻蛉もこのクラブの母体である日立製作所本社のサッカー部に所属していましたから、この優勝は格別です。

きょうは蜻蛉の自己紹介として、この日立サッカー時代のコトを記載したいと思います。このブログにて、2011年12月22日、2012年1月9日、同年3月14日の3回に分け、小学校時代から大学時代まで紹介しておりますが、最初にこれまでの略歴を紹介しその後日立時代のコトを紹介するコトにします。

《自己紹介》

蜻蛉(トンボ)の本名は:竹嶋住夫(たけしま・すみお)ローマ字でSumioTakeshimaと綴ります。昭和16年(1941年)日米開戦(真珠湾攻撃)の年の8月5日埼玉県浦和市(現在さいたま市)で生まれました。学歴は、浦和市立別所小学校、浦和市立白幡中学、埼玉県立浦和高校、慶応義塾大学を東京オリンピックの年、昭和39年(1964年)に卒業し、同年、日立化成(株)に入社、その年から本社(東京)の営業部で勤務。

この年から私は、日本サッカー界でも古豪の日立製作所本社サッカー部に入部しました。偶然にも、中学時代優勝したときのメンバーが4人も揃ったのです。また日立には、慶応の先輩が4人(全員天皇杯優勝経験者、私の長兄と同期1人)また、大学サッカー界で活躍していた中央大、立教大出身者他、高校サッカー界でも活躍していた面々が揃い、強力なチームでした。

当時の日立は、大会期間中以外は、通常の勤務で仕事をした後、夜、近くの皇居前広場で体操したり走ったりで、時々四谷の上智大学で夜間照明の下でボールを使った練習する程度で、体力を維持するのが精一杯でした。日曜日は練習か試合というサイクルで、大学時代までと比べて練習量が少ないのが悩みでした。合宿は井の頭公園の横にある日産厚生園(芝生のグラウンド)でやった覚えがあります。

大会といえば、実業団選手権、都市対抗、全日本選手権予選と本大会と言う程度で、まだJSLはなかったのです。

1964年の実業団大会は静岡県の藤枝市で行われました。藤枝には高校時代2回、名門藤枝東と練習試合した経験があります。名物サッカー最中を売るほど、サッカーを心から愛好している年寄りの男女が観戦してくれている様子を見て感激したコトが思い出されます。

この大会、選手兼監督の愛称トクさんこと鈴木徳衛さんは大胆にもレギュラーチームとサブチームに分けて、対戦相手の力量を計ってどちらかのチームを出場させるか決めたのです。私はサブチームでしたが、どことやっても負ける気がしませんでした。トクさんも同じチームで危なげなく勝ち進みました。決勝戦は日本代表選手が揃う古河電工とレギュラーチームが対戦しましたが、惜しくも敗れました。

負けましたが、この大会は毎日が楽しく、朝の散歩では熟したみかんをもぎ取って食べたり、行きかう人たちと笑顔で挨拶をかわしたり、旅館での会話は、東北弁、広島弁、九州弁が行き来してまるで漫才でもしているかのようで、聞いていて本当に面白いし楽しかった。試合でも緊張するどころかリラックスしてプレーができて楽しかったコトが思い出されます。

都市対抗は後楽園の競輪場でのナイターでした。照明は少し薄暗かったけれど、1年前の早慶ナイター定期戦で、奇跡の決勝ゴールを私が決めたところなので勝てる気がしていました。決勝は確か古河だったと思いますが、敗れて準優勝でした。

この年天皇杯の全日本選手権本大会(神戸)に、私は生まれて初めて出場しました。あまり記憶に残っていませんですが、対明治大学との試合で左ウイングで出場し、センターリングがうまく風に乗りゴールした記憶だけ残っています。この大会は準決勝かその前かどうか忘れましたが古河電工?に敗れたような記憶があります。

この年にオリンピックのために招聘した日本の近代サッカーの父ともいえるデットマール・クラマー(当時西ドイツ)さんが提唱していた日本で初めてのホーム&アウェー形式のリーグ戦が、翌年の65年から開幕するコトが決まったのです。

昭和39年(1965年)、記念すべき第1回日本サッカーリーグ(JSL)が古河電工、三菱重工、日立製作所、東洋工業、八幡製鉄(新日本製鉄)、ヤンマー・ジーゼル、名古屋相互銀行、豊田織機、の企業8社の間で開幕されました。結果は東洋工業(現在の広島サンフレッチェ)が優勝。得点王は私の同僚野村六彦選手で、彼を評して、ある協会理事が「忍者まがいの動きを持っている」と述べていました。

私の出場機会は少なかったのですが、国立での対豊田織機戦に出場して得点しました。チームはこの試合7得点でリーグ最多得点の新記録をつくったのです。

私は68年まで現役でしたが、日立は監督にベテランのロクさんこと高橋英辰さんが就任され、本格的にチームを強化するため、私は戦力外というコトで引退。その後は時々日立サッカースクールで子どもたちの指導員として手伝ったり、日立化成で日産グループの大会にキャプテンで出場し3位を獲得。

群馬県の館林での長崎国体予選に東京選抜で出場。当時の藤和不動産(後のフジタ工業、平塚ベルマーレ、今年J1に返り咲いた湘南ベルマーレの前身)は優秀選手を補強し優勝候補筆頭でしたが、寄せ集めの我々のチームは好調で1−0で勝って準決勝に進出。次の対戦相手は埼玉の浦和クラブで、私の出身地、前半想わぬコトが起こったのです。私はあるプレーの後、浦和の選手の尻をポンと軽く叩いたら、主審が振り向いて、いきなりレッドカードを私に突きつけたのです。叩かれた本人も私の友達なので何のコトかと驚いて見ていたのです。私は浦和のベンチ前を通ったとき、「どうしたんだ?」という声をかけられたのですが、私にも理由が分かりませんでした。ひとつだけ思いだしたのは、前の藤和不動産の試合で、我々のゴールキーパー(警視庁の人)が指を怪我して倒れていたので、「もう少し寝てて良いよ!」と私が吐いた言葉を主審が聴いていて不快な顔をしていたコトぐらいだったのです。偶然にもこの試合もその主審だったのです。東京の役員が提訴すると言ったのですが、私は断ったのです。

私のサッカー人生で退場を命じられたのは選手として初めてで最後、監督としてペルーで1回あっただけです。

日立は各大学から日本代表クラスの選手を補強し、ユニフォームもレイソルと同じ黄色で、走る日立で旋風を巻き起こし、JSLと天皇杯にて優勝。37年という時間はこの時以来を意味するのです。

残念ながらロクさんとトクさんは日本でのW杯サッカーを観ずに他界されてしまわれた。合掌。

1973年私は日立の製品を売る会社に転職、その大阪支店に勤務中、東京で知り合ったペルー日系二世の女性と結婚、長男が誕生して1年後の1975年、家内の家族が住むペルーの首都リマに親子で訪問しました。このとき以来私のサッカー人生はガラリと変わりました。このコトについては別の機会に述べようと思います。

以上、日立製作所サッカー部の選手時代について記載しました。詳しい資料はペルーにおいてきましたので、ボケぎみの頭で記憶をたどって出てきたコトだけなので誤りがあるかもしれませんその場合はご勘弁ください。

グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ

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