
さて、きょうも前回と同様に、雑誌『サッカー批評』(双葉社発行No.59)の、憂国のジャーナリストが問う「世界の壁」は本当にあるのか?について、語り合いたいと思います。
このコトを記載したのは、1998年からイタリアに移住して、サッカーを取材されている日本人のジャーナリスト宮崎隆司氏で、未だメディア二溢れる「世界の壁」「世界との差」という言葉を目にするたびに、日本人ならではの謙虚さを見る反面、同時に悔しい思いもこみ上げてくる。なぜそこまで卑屈になる必要があるのか?
という問いに対して、宮崎氏は、「そんなものはない」と断言しています。なぜここまで断言できるのかと言えば、第一に欧州の現場で確実にその“壁”なるものが低くなっていく様を目の当たりにしてきたからに他ならない。その裏づけとして、欧州各国で日本選手は現地の選手に対等に渡り合い、時には彼らを凌駕するプレーを見せている「事実」がある。技術的な資質で大きく劣っていたわけではない。もしそこに「壁」の存在を認めるなら、それは「国際経験の差」と言える場合がほとんどだろう。
日本の選手は周囲からリスペクトされ、信頼される存在、その最たる例が今で言えば長友、長谷部、“ピンチに怯まず、チャンスに驕らず”の姿勢と、それを支える精神、すなわち謙虚さに裏打ちされた高いプロ意識は、日本人選手の傾向として強く見られるストロングポイントであることは疑いようがない。彼らのような選手が今後もさらに増えていくとすれば、それは「日本サッカー界全体の底上げ」に直結するはずである。
日本ほどマジメにサッカーを論じ、真摯に向き合っている国は他にどこがあるだろうか?指導書など初めとする刊行物の多さ、熱心にサッカーを教える指導者の豊富さと情熱、例外なく全力を尽くす選手たちの姿は間違いなく世界でも誇れるレベルである。
欧州各国は長足の進歩を遂げた日本サッカー界に深い畏怖の念を抱いているからこそ、時間の経過と共に大きくなる日本の足音に怯え始まっている、とすれば、もはや気持ちの面では「欧州恐れるに足らず」そして、いつ世界トップに追いつくのではなく「追い越す」と我々は堂々と述べて良いはずなのだ。
「本場」への敬意を払いながらも、しかし過度な欧州崇拝をやめ、独創性のなさや肉体的なハンディを嘆くのではなく、我々日本人ならではの献身性こそを最大の武器とするサッカーを貫き、地道な努力を今まで通り、ときには今まで以上に重ねていけば、20年後に日本はその緻密なサッカーで世界の4強に名を連ねることも決して不可能ではない。逆に本場にはない日本独自の資質にフォーカスすれば、導き出される答えは自ずとそうなる。したがってまずは、「世界の壁」なるものは、今や、完全かつ最終的に取り払われたと考えるべきなのだ。 宮崎隆司氏はそのように結論づけています。
これまで宮崎氏が論じているコトを記載しましたので、これからは私蜻蛉の見解を述べてみようと思います。断っておきますが、宮崎氏の考えを私が否定的に述べたとしても、それが間違っているのだ、というふうに解釈しないでいただきたい。あくまでも、「このような別の見方や考え方もありますよ」というふうに受け止めていただければ幸いです。
「世界の壁」という言葉について、結論的に言わせてもらえれば、世界との「差」はあっても「壁」なるモノはない、と思っています。もし「壁」なるモノを論ずるとすれば、世界ではなく「日本社会」と「日本人同士」の「壁」ではないかと思っています。日本サッカー界も例外ではありません。
「世界の壁」というのは、日本サッカーが、日米開戦以来、世界のサッカーから孤立化し、戦後復活したものの、野球界がいち早く、職業野球、社会人野球、学生野球、高等学校、中等学校、草野球というように、国民スポーツとして先鞭をつけたため、サッカーを含めた他のスポーツは遅れをとってしまい、限られた枠の中で普及と振興をはかるしかなかったのでした。もちろんサッカーの技術というモノも、指導者不在で、「How to play soccer」なる洋書を購入して、独学せざるを得ない状況でした。
戦後のサッカー界の大きな出来事といえば、ドイツ人のデッドマール・クラマー氏の来日で、日本のサッカーが世界から孤立しているコトを思い知らされたのでした。そのとき以来見えない外国サッカーや来日した外国チームとの差が歴然としているコトを知らされ、世界との「差」とか「壁」という表現が定着したまま今日まで引き継がれてきているようです。
問題は日本という国と人による構造主義の差別社会(上層や下層、学歴等)に枠組みされてきた「壁」という現実から、自然と己のモノと他のモノとを比較する慣習になり、世界サッカーと日本サッカーを幻想的に眺めて、「差」を「壁」と表現したモノではないか、というふうに私は解釈しております。
宮崎氏の「“壁”なるものが低くなっていく様」という表現は、彼がイタリアや欧州のサッカーを身近に見てきて、その見慣れてきたサッカーのレベルの視線がそうさせているのであって、日本のサッカーが、何人かの選手が欧州のトップクラスのクラブで活躍しだして、彼の目線とラップして、それなりに高くなってきているかのように幻想させているようです。しかし現実の日本選手は、長友、本田、香川、川島が目立つだけで、他の選手はスポット的に活躍していますが、出場していない選手が大半なのです。
日本ほどマジメにサッカーを論じ、真摯に向き合っている国は他にどこがあるだろうか?と述べていますが、これこそ日本人の気質というか負けず嫌いの性格がそのまま現れているようです。日本の世界地図のような自己中心的な見方のように感じます。
日本のサッカーに関する出版物にも触れていますが、日本人は学校でサッカーを教えられて学び、生涯勉強するように躾けられています。ですから熱心に勉強し討論もするわけです。しかしサッカーの先進国の人は、「教えられるより、まずカラダで覚える」それが大事なコトだと考えながら自主的にプレーしているのです。教科書を読んで、先生に手取り足取りサッカーを学んでいるのではない、というコトです。ですから刊行物にしても、社会学的な出版物は多くあっても、技術や戦術などの本が出版されても、買って読む人はマレなのです。
サッカーゲームの本質は押し合いへし合いの「闘争」です。スペイン語で闘争を「コンペテンシア」と言います。私が35年以上南米ペルーでプレーし、観戦し、指導してきて、日本サッカーと根本的な違いは、若年層からトップだけでなく50歳代にても「競り合いにおける激しさ」の度合いにあります。
ですから、宮崎氏のいわれるリスペクト、謙虚さ、忠実さを前面に押し出すのではなく、対戦相手に競り勝つだけでなく仲間のライバルに対しても同様、指導者に認められるために「エゴイズム」と「プライド」でアピールしなければならないのです。その上で高いレベルに応じて「リスペクト」や「謙虚さ」を身につけていくのです。
日本では高校生でもかなり高度な戦術練習で鍛えられていますが、ペルー(他の南米でも)では、16歳になるまで、細かい戦術の指導はしません。それより、個人の技術と体力のレベルアップに力を注いでいるのです。
日本のサッカー関係者が、「ユース段階で日本の選手は外国の選手に比べ技術が優れているのに、トップのレベルになるといつの間にか抜かれてしまう」と嘆いておられますが、この戦術指導を技術が完成していない段階でやるのか、完成度を高めてから指導するのか、という違いに両者間で逆転現象があらわれるようです。
南米の指導者は、選手を教育的に育てようとするのではなく、選手たちの立場に立って、話し合いながら、必要なコトを気づかせるように指導しているのです。
裏を返せば、日本人の指導者の完璧主義的な指導というか、教えて育てようという点に、サッカーのコンペテンシアに欠かせない「動物的な競争心を理性で封じ込めさせてしまっているのでは」と私は、これまでの日本サッカーを見てきて、そのように感じています。
日本サッカーの問題は、「世界の壁ではなく、日本社会と日本人同士の壁」に、その答えがあるのでは、と私はそのように解釈しております。
グラシアス! アスタ・ラ・プロクシマ!
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